フリーエリア
テレビで放送される殺人事件報道をみるにつ近頃の殺人は昔とは随分違う様相をていしているなと思う。特異性のきわめて強いように思える殺人事件の方が、むしろ常態化してきたような印象だ。
という訳で久しぶりに小説で呼んだ殺人をテーマにしたもの。
「予告された殺人の記録」
1951年に閉鎖的な田舎町でおきた実際の殺人事件をモデルにした、ノーベル賞作家ガルシア・マルケスの小説だ。
古い共同体の濃密な人間関係の中で発生する殺人事件だが、昨今の殺人事件とはまた違う特異性を持った殺人である。
なかな面白い小説だ。外国の事件なので、古い共同体社会とは言っても日本の旧来の前近代的な農村社会のような同質的な共同体ではない。
アラブ系人種との共存、貧富の差、家柄や階級の差から職業の違い、こうした様々な差異が重層的に錯綜する人間関係を背景に物語は進行する。それが、核となる凄惨な殺人に立体的な奥行きとリアリティを与えている。
また、事件の起こる朝から物語は始まり、次にその前日までのいきさつにさかのぼり、最後にクライマックスの殺人事件につながっていく、この時系列の反転がストーリ展開全体に緊張感を生み出している。
あとがきは、事件の共同体における儀式的な性格にについて言及している。
旧来の価値観や倫理観に彩られたよそ者との結婚が破綻に終わった時、名誉の回復が不義をおこなったとみなされた内部の人間の死によって購われる。それが儀式的だと言うのだ。
儀式的なのは殺人が行われた動機や背景だけではなく、殺人自体が一種の儀式的な行為として描かれているのだろう。
殺人を起こした双子の兄弟を含め、多くの人がこの殺人の発生を回避しようとしたにも関わらずなぜこの殺人が実行されたのか。いや実行されなければならなかったのか。
事件後、崩壊していく共同体であったとしても、共同体である限り、存続しようとする内部への求心力は働いているはずだ。
共同体に限らずある集団グループがもっとも結束が固くなる要因はといえば私に思い当たるのは、三つほどある。
まず外部に敵をつくり危機感をあおり結束を固める。これを国家的レベルでやっているのが北朝鮮だろう。
次に内部の問題者や反逆者の存在。そんな人を一人作り吊るし上げることによって、結束は固くなる。一昔前の連合赤軍がこの方法でメンバーを次次と惨殺し結局は破滅したクチではなかろうか。
最後にもう一つ、それは秘密の共有だ。何故殺人は実行されなければならなかったか。
共有された秘密は共同体の結束の媒体となる。その秘密が忌まわしいものであればあるほど、その共同体の内閉的な結束の強さのバロメーターとなる。そしてその秘密が共同体全体に知れ渡った時、秘密は、秘密ではなくなり全体によって承認された既成事実として一人歩きを始める。
双子の兄弟は、サンディアゴ・ナサールを殺害すると合う人合う人に予告する。その直接の動機は誰かの手によって自分達に殺人をやめさせて欲しいためだが、同時に別の作用をもたらしている。それが秘密の暗黙の承認ではないかと思うのだ。
殺人の大儀が、共同体の旧来の倫理観によって成り立っている一家の名誉回復と、外部から入り込んで来た者にたいして共同体の名を辱めた内部の人間の不義を正すために実行されるものであるならば、その役目(殺人)を秘密の行為として兄弟二人が全て背負うのは少しばかり酷だ、と考えられなくもない。
だから、殺人は全ての人々に予告された。まるでその罪過のツケは全員が背負うべきもでもあるかのように。それが、彼らの殺人の予告のうちにあるもう一つの隠された動機ではないかと思える。
そして、ほとんどの人が殺人について知っていた月曜日の朝、殺人の計画はあたかも村人全体によって是認されている事実であるかのように一人歩きをはじめ、人々の意識に作用していたのではないだろうか。
本来は秘密に行われることが普通である筈の殺人が、当人達が予告することによって、ほとんどの人々に共有された時、殺人は秘密ではなくまるで全体の意思であるかの如く作用し、人々の正常な判断力を微妙に狂わせていったような気がする。
だから多くの人々が殺人を制止しようと試みたにも関わらず、全て中途半端で場当たり的なものか、或いは非常に単純な過ちや失念、思い違いでことごとくその機会を逸することになったのではないか。
結果、殺人は実行された。
私は思うのだが、もし兄弟が殺人の実行を誰彼かまわず予告せずに、ごく少数の人にのみ打ち明けていたならば、あるいは殺人は回避されていたのではないだろうかと。
なぜなら一部の人だけが知っているだけならば、それは、彼ら個人の犯罪でしかなく、そこに共同体的な場の力動性は作用しないからである。
また殺害された本人も最後にはこの理不尽な殺人をまるでみずからの運命としてすすんで受け容れているかのごとき印象をうけるのだ。
彼の手の刺し傷が処刑されたキリストの傷と似ていた、という証言がそれを暗示しているようで面白い。
そして何よりも最後のクライマックス、殺人の実行までのプロセスがどこか祭り、カーニバル的な雰囲気を漂わせているのがこの殺人の特異性がもっとも色濃く表れているところではないだろうか。
しかし昨今の殺人事件は、その動機に、こうした社会性は全く失われている。報道で見る限りでは、本人の供述も断片的で全く動機の態をな
していない。本当の動機は、本人も自覚できないほどに、個人の内面的
な混迷の底に深く埋没してしまっているかのような印象を受ける。
予告される殺人とは違い、身近にいる人間も全く気づかない個人の内面的な破綻が、突然表面化し怪物的な暴走をはじめる、とそんなイメージだ。
カミュの小説異邦人の殺人の動機も発表後かなり論議を呼んだようだ。
不条理な殺人。しかし最近の殺人の動機の不条理さは、すでに異邦人を超えてしまっている。
という訳で久しぶりに小説で呼んだ殺人をテーマにしたもの。
「予告された殺人の記録」
1951年に閉鎖的な田舎町でおきた実際の殺人事件をモデルにした、ノーベル賞作家ガルシア・マルケスの小説だ。
古い共同体の濃密な人間関係の中で発生する殺人事件だが、昨今の殺人事件とはまた違う特異性を持った殺人である。
なかな面白い小説だ。外国の事件なので、古い共同体社会とは言っても日本の旧来の前近代的な農村社会のような同質的な共同体ではない。
アラブ系人種との共存、貧富の差、家柄や階級の差から職業の違い、こうした様々な差異が重層的に錯綜する人間関係を背景に物語は進行する。それが、核となる凄惨な殺人に立体的な奥行きとリアリティを与えている。
また、事件の起こる朝から物語は始まり、次にその前日までのいきさつにさかのぼり、最後にクライマックスの殺人事件につながっていく、この時系列の反転がストーリ展開全体に緊張感を生み出している。
あとがきは、事件の共同体における儀式的な性格にについて言及している。
旧来の価値観や倫理観に彩られたよそ者との結婚が破綻に終わった時、名誉の回復が不義をおこなったとみなされた内部の人間の死によって購われる。それが儀式的だと言うのだ。
儀式的なのは殺人が行われた動機や背景だけではなく、殺人自体が一種の儀式的な行為として描かれているのだろう。
殺人を起こした双子の兄弟を含め、多くの人がこの殺人の発生を回避しようとしたにも関わらずなぜこの殺人が実行されたのか。いや実行されなければならなかったのか。
事件後、崩壊していく共同体であったとしても、共同体である限り、存続しようとする内部への求心力は働いているはずだ。
共同体に限らずある集団グループがもっとも結束が固くなる要因はといえば私に思い当たるのは、三つほどある。
まず外部に敵をつくり危機感をあおり結束を固める。これを国家的レベルでやっているのが北朝鮮だろう。
次に内部の問題者や反逆者の存在。そんな人を一人作り吊るし上げることによって、結束は固くなる。一昔前の連合赤軍がこの方法でメンバーを次次と惨殺し結局は破滅したクチではなかろうか。
最後にもう一つ、それは秘密の共有だ。何故殺人は実行されなければならなかったか。
共有された秘密は共同体の結束の媒体となる。その秘密が忌まわしいものであればあるほど、その共同体の内閉的な結束の強さのバロメーターとなる。そしてその秘密が共同体全体に知れ渡った時、秘密は、秘密ではなくなり全体によって承認された既成事実として一人歩きを始める。
双子の兄弟は、サンディアゴ・ナサールを殺害すると合う人合う人に予告する。その直接の動機は誰かの手によって自分達に殺人をやめさせて欲しいためだが、同時に別の作用をもたらしている。それが秘密の暗黙の承認ではないかと思うのだ。
殺人の大儀が、共同体の旧来の倫理観によって成り立っている一家の名誉回復と、外部から入り込んで来た者にたいして共同体の名を辱めた内部の人間の不義を正すために実行されるものであるならば、その役目(殺人)を秘密の行為として兄弟二人が全て背負うのは少しばかり酷だ、と考えられなくもない。
だから、殺人は全ての人々に予告された。まるでその罪過のツケは全員が背負うべきもでもあるかのように。それが、彼らの殺人の予告のうちにあるもう一つの隠された動機ではないかと思える。
そして、ほとんどの人が殺人について知っていた月曜日の朝、殺人の計画はあたかも村人全体によって是認されている事実であるかのように一人歩きをはじめ、人々の意識に作用していたのではないだろうか。
本来は秘密に行われることが普通である筈の殺人が、当人達が予告することによって、ほとんどの人々に共有された時、殺人は秘密ではなくまるで全体の意思であるかの如く作用し、人々の正常な判断力を微妙に狂わせていったような気がする。
だから多くの人々が殺人を制止しようと試みたにも関わらず、全て中途半端で場当たり的なものか、或いは非常に単純な過ちや失念、思い違いでことごとくその機会を逸することになったのではないか。
結果、殺人は実行された。
私は思うのだが、もし兄弟が殺人の実行を誰彼かまわず予告せずに、ごく少数の人にのみ打ち明けていたならば、あるいは殺人は回避されていたのではないだろうかと。
なぜなら一部の人だけが知っているだけならば、それは、彼ら個人の犯罪でしかなく、そこに共同体的な場の力動性は作用しないからである。
また殺害された本人も最後にはこの理不尽な殺人をまるでみずからの運命としてすすんで受け容れているかのごとき印象をうけるのだ。
彼の手の刺し傷が処刑されたキリストの傷と似ていた、という証言がそれを暗示しているようで面白い。
そして何よりも最後のクライマックス、殺人の実行までのプロセスがどこか祭り、カーニバル的な雰囲気を漂わせているのがこの殺人の特異性がもっとも色濃く表れているところではないだろうか。
しかし昨今の殺人事件は、その動機に、こうした社会性は全く失われている。報道で見る限りでは、本人の供述も断片的で全く動機の態をな
していない。本当の動機は、本人も自覚できないほどに、個人の内面的
な混迷の底に深く埋没してしまっているかのような印象を受ける。
予告される殺人とは違い、身近にいる人間も全く気づかない個人の内面的な破綻が、突然表面化し怪物的な暴走をはじめる、とそんなイメージだ。
カミュの小説異邦人の殺人の動機も発表後かなり論議を呼んだようだ。
不条理な殺人。しかし最近の殺人の動機の不条理さは、すでに異邦人を超えてしまっている。

