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突然ユングのことなんだが、大分以前によんだ物理学者パウリとの共著「自然現象と心の構造」においてあの共時性について論考している。日本で翻訳され出版されているアメリカあたりのサイコセラピーの本なんかには、ユングの共時性と夢理論を援用しているものがあるようだ。もちろん、それがどれ程の理論的正当性を持つのか、どれ程の臨床上の実効性を持つのか、もちろん私には解らないが。
ユングは「自然現象と心の構造」において共時性の具体例として甲虫と鳥の群れの話を引用している。
で、鳥の群れについての話なのだが、
ユングの患者の妻は、自分の母や祖母が死んだ時に鳥の群れがやって来たという体験から自分の夫が心臓疾患の疑いで病院へ行く時に既に鳥の群れがいた、ことに激しい不安を感じ、夫は、病院から帰る途中の路上で倒れて死んだというという話だ。激しい不安は、夫の危機に妻の無意識が気づいていた、そして鳥の群れと彼女の無意識は元型的な基盤によって連関付けられていたということなのだろうか?
だがこれは、共時性によってしか説明のつかないようなめずらしい話なのか?
私の母は、離島で生まれ育ったが、昔私に死期の近い人の家には、カラスが集まり群れをなすことがあるという話をしたことがあった。
母が子供の頃、病に臥せっていた親戚の老婆の家の庭の木に、カラスが集まり群れをなしていた。それを見た老婆が非常に気味悪がっていたそうなのだが、老婆はそれからまもなく死んだそうである。
以前私は、それは動物の予知能力などではなく、嗅覚力によるものではないかとの推測を書いたことがある。つまり死期の迫った人間は、すでに何がしかの死臭のようなものを出しており、カラスはその死臭を嗅いで集まってきたのではないか、との推測なのだが。だとすれば別に共時的な現象ではないのだ。
もちろん野生動物の本能的な予知能力だという可能性も否定するつもりはない。そしてもし、それが彼女の無意識に非因果的ではあるが符合し不安を引き起こしたのなら・・・。
もし、「意味のある偶然の一致は、元型的な基盤を持っている」(引用)であり、さらに「情動性は、相当程度、本能に基づいており、この本能の形相的な側面こそが元型なのである」(引用)のであれば、共時的な現象であることも否定できないわけだ。
ユングはこの本において共時性の概念の先駆として中国の道の観念についても言及しているのだが。
ジェスイット派が道を神と訳したことについて、ユングは西洋的思考法にとってのもみ正しいとしている。
道は、おそらく万物の存在に先立つ究極の始原性であって、言葉による形容を超越している、と自分なんかは想像するのだ。従って無あるいはカオスといった言葉さえ、結局は便宜的な形容にすぎないような気がするのだが。
ユングは、Rウィルヘルムが賢明にもそれを意味と解釈した、と書いている。だが、道には意味と解釈できるほどの強い作為性はないような気がするのだ。
もちろん、神と訳するよりは幾分はマシかもしれない、という程度の意味で賢明と言ったのであれば、判らぬ話でもない。少なくとも道の非人格性については意識していたかも知れないから。
道は私がイメージする欧米的な神のイメージとはおよそかけ離れた観念だ。で、旧約聖書のヨブ記をテーマにしたユングの著作、「ヨブへの答え」なんかが私にとっては欧米的な神ついてのなかなか興味深い考察なのだ。
ヨブ記において全能の神ヤーヴェはサタンの誘惑に乗ってヨブに過酷な運命をあたえ神への忠誠心を試す。
ヨブの忠誠を疑いヨブに嫉妬さえ起こし、神への信義を貫こうとするヨブに厳しく対峙する神ヤーヴェ。
我々仏教民族のイメージする神とも違う。
ヨブ記の神ヤーヴェは、私からすれば、神、というよりも、フロイトの著作、「トーテムとタブー」なんかにおける原父のイメージにむしろ近いのだ。
というわけで、一読書オタクの他愛もない雑感なのだが・・・。
ユングは「自然現象と心の構造」において共時性の具体例として甲虫と鳥の群れの話を引用している。
で、鳥の群れについての話なのだが、
ユングの患者の妻は、自分の母や祖母が死んだ時に鳥の群れがやって来たという体験から自分の夫が心臓疾患の疑いで病院へ行く時に既に鳥の群れがいた、ことに激しい不安を感じ、夫は、病院から帰る途中の路上で倒れて死んだというという話だ。激しい不安は、夫の危機に妻の無意識が気づいていた、そして鳥の群れと彼女の無意識は元型的な基盤によって連関付けられていたということなのだろうか?
だがこれは、共時性によってしか説明のつかないようなめずらしい話なのか?
私の母は、離島で生まれ育ったが、昔私に死期の近い人の家には、カラスが集まり群れをなすことがあるという話をしたことがあった。
母が子供の頃、病に臥せっていた親戚の老婆の家の庭の木に、カラスが集まり群れをなしていた。それを見た老婆が非常に気味悪がっていたそうなのだが、老婆はそれからまもなく死んだそうである。
以前私は、それは動物の予知能力などではなく、嗅覚力によるものではないかとの推測を書いたことがある。つまり死期の迫った人間は、すでに何がしかの死臭のようなものを出しており、カラスはその死臭を嗅いで集まってきたのではないか、との推測なのだが。だとすれば別に共時的な現象ではないのだ。
もちろん野生動物の本能的な予知能力だという可能性も否定するつもりはない。そしてもし、それが彼女の無意識に非因果的ではあるが符合し不安を引き起こしたのなら・・・。
もし、「意味のある偶然の一致は、元型的な基盤を持っている」(引用)であり、さらに「情動性は、相当程度、本能に基づいており、この本能の形相的な側面こそが元型なのである」(引用)のであれば、共時的な現象であることも否定できないわけだ。
ユングはこの本において共時性の概念の先駆として中国の道の観念についても言及しているのだが。
ジェスイット派が道を神と訳したことについて、ユングは西洋的思考法にとってのもみ正しいとしている。
道は、おそらく万物の存在に先立つ究極の始原性であって、言葉による形容を超越している、と自分なんかは想像するのだ。従って無あるいはカオスといった言葉さえ、結局は便宜的な形容にすぎないような気がするのだが。
ユングは、Rウィルヘルムが賢明にもそれを意味と解釈した、と書いている。だが、道には意味と解釈できるほどの強い作為性はないような気がするのだ。
もちろん、神と訳するよりは幾分はマシかもしれない、という程度の意味で賢明と言ったのであれば、判らぬ話でもない。少なくとも道の非人格性については意識していたかも知れないから。
道は私がイメージする欧米的な神のイメージとはおよそかけ離れた観念だ。で、旧約聖書のヨブ記をテーマにしたユングの著作、「ヨブへの答え」なんかが私にとっては欧米的な神ついてのなかなか興味深い考察なのだ。
ヨブ記において全能の神ヤーヴェはサタンの誘惑に乗ってヨブに過酷な運命をあたえ神への忠誠心を試す。
ヨブの忠誠を疑いヨブに嫉妬さえ起こし、神への信義を貫こうとするヨブに厳しく対峙する神ヤーヴェ。
我々仏教民族のイメージする神とも違う。
ヨブ記の神ヤーヴェは、私からすれば、神、というよりも、フロイトの著作、「トーテムとタブー」なんかにおける原父のイメージにむしろ近いのだ。
というわけで、一読書オタクの他愛もない雑感なのだが・・・。
中国が初の政党白書なんてものを出して共産党による一党独裁の正当性を主張しているらしい。
私が、この小さな記事から、わずかばかりではあるが、興味をもったのが、中国には八つの民主諸党派が存在している、とあえて強調されているという点。
もちろんそれは、私がこの記事の部分から、あえて強調、というニュアンスを感じた、ということなのだが。
おそらく海外からは、中国共産党が、非民主的・人権抑圧的な体質であるというイメージで一般的には捉えられているのだろうから、その辺りも意識しているのだろう、と思った。
で、その八つの民主党派の概要がこのサイト・・・。
http://www.china.org.cn/japanese/81414.htm
殆ど万人規模の組織ではあるが、13億の人口からすれば、雀の涙にもならない位の人数。
結局、中国共産党がこんな政党の存在を認知しているのも、共産党一党支配のためには必要だからだろう。
つまり、私は、ああ、こりゃ実態はガス抜き政党だな!!と思ったわけです。
共産党以外の政治結社を全く認めない、と云うことになると不満が充満する。そんな不満がマグマの如く噴火したのがあの天安門事件ではなかったか。
天安門事件が、中国政府にとっては、政治的なトラウマとなっている可能性は否定できないだろうし、実際中国共産党は、天安門事件から、日本人が思っている以上に多くの事を学習したのではないのだろうか。
たしかに、いずれの党派も成立年は天安門事件よりもかなり遡るが、いま現在もその存在を公式に認知している事情には、天安門事件の教訓も幾分は影を落としているのではないかと想像するのである。
以前、ある有名な右翼系のブログが、中国について、
下部構造が資本主義で上部構造が共産党独裁などといういびつな体制が長続きするはずはない
と書いてあるのを読んだことがある。実に明快で解りやすい主張ではあるが、現実はそんな単純なものじゃないだろう、という疑問も湧く。
そもそも現在の中国共産党が、本当に厳密な意味で共産主義といえるのかどうか。
ひょっとしたら現在の中国共産党指導部は、多少は共産主義的なドグマの下に組織されたエリート官僚機構だ、位に考えた方が、むしろ現実に近いのではないだろうか。そして、その官僚機構によって統治される強権国家、それが中国ではないだろうか。
もともと中国には古くから科挙制度というものが存在していたわけだから、例え共産主義的であったとしても、官僚機構を受け入れやすい政治的な土壌はあった筈なのだろうから。
またこの主張は、当然、下部構造が上部構造を規定する、というあの有名な公式が正しい、という前提の上に立っているわけだ。
だが、マックス・ウェーバーなんて人が「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」という著作で、唯物史観を評価しながらも、その一元性にわりと根本的な疑問を提していたりもするわけだ。
それに体制が長続きしない、と言うが、必ずしもドラスティックな体制変革乃至は崩壊が起こるとは限らないだろう。階級対立や民主化要求が先鋭化し、ある臨界点を超えてしまったら、ロシアのような急激な体制変革も起こりうるかもしれないが、なにはともあれ中国共産党は、良し悪しはともかく、文化大革命も天安門事件も乗り切ってきた訳だ。
だから実は、中国共産党は、日本の自民党なんか到底足元にも及ばない、とってもしたたかな自己復元能力と高い危機管理能力を持った政党なのではないのだろうか。
そんなこともつらつらと思いながら、あの記事を見て思ったわけである。
八つの民主党派、ああ、こりゃガス抜き政党だな、と。所詮は中国共産党の一党支配体制の一パーツの域を出てはいないのではないかな、と。
私には、現在の中国の政治的実情は、よく解らない。
だが昨今、ネット上や政治評論の雑誌では、中国を批判する論調が目立つが、そんなジャーナリストや評論家達も、中国という国を一体何処まで理解しているのだろうと疑問に思うことがある。
地理的にも文化的にも中国とは極めて近い関係にありながら、多分、世界屈指の嫌中国家として(確固たる?)地位を築いている日本。
昨今、隆盛を極める中国批判の基となっている中国観は、おそらく明治以降の歴史的なスパンによって成り立っているのだろう。まぁ、確かに明治以降の日中の歴史のスパンだけで日中関係を捉えるならば、俺は中国が大嫌いだ!なんていう御仁数多存在するのも不思議はないが。
しかし時には、かって荘子や老子、そして易経を生んだ、中国の悠久の歴史にぼんやり思いを馳せるのも悪くはない、と思うのだが。
私が、この小さな記事から、わずかばかりではあるが、興味をもったのが、中国には八つの民主諸党派が存在している、とあえて強調されているという点。
もちろんそれは、私がこの記事の部分から、あえて強調、というニュアンスを感じた、ということなのだが。
おそらく海外からは、中国共産党が、非民主的・人権抑圧的な体質であるというイメージで一般的には捉えられているのだろうから、その辺りも意識しているのだろう、と思った。
で、その八つの民主党派の概要がこのサイト・・・。
http://www.china.org.cn/japanese/81414.htm
殆ど万人規模の組織ではあるが、13億の人口からすれば、雀の涙にもならない位の人数。
結局、中国共産党がこんな政党の存在を認知しているのも、共産党一党支配のためには必要だからだろう。
つまり、私は、ああ、こりゃ実態はガス抜き政党だな!!と思ったわけです。
共産党以外の政治結社を全く認めない、と云うことになると不満が充満する。そんな不満がマグマの如く噴火したのがあの天安門事件ではなかったか。
天安門事件が、中国政府にとっては、政治的なトラウマとなっている可能性は否定できないだろうし、実際中国共産党は、天安門事件から、日本人が思っている以上に多くの事を学習したのではないのだろうか。
たしかに、いずれの党派も成立年は天安門事件よりもかなり遡るが、いま現在もその存在を公式に認知している事情には、天安門事件の教訓も幾分は影を落としているのではないかと想像するのである。
以前、ある有名な右翼系のブログが、中国について、
下部構造が資本主義で上部構造が共産党独裁などといういびつな体制が長続きするはずはない
と書いてあるのを読んだことがある。実に明快で解りやすい主張ではあるが、現実はそんな単純なものじゃないだろう、という疑問も湧く。
そもそも現在の中国共産党が、本当に厳密な意味で共産主義といえるのかどうか。
ひょっとしたら現在の中国共産党指導部は、多少は共産主義的なドグマの下に組織されたエリート官僚機構だ、位に考えた方が、むしろ現実に近いのではないだろうか。そして、その官僚機構によって統治される強権国家、それが中国ではないだろうか。
もともと中国には古くから科挙制度というものが存在していたわけだから、例え共産主義的であったとしても、官僚機構を受け入れやすい政治的な土壌はあった筈なのだろうから。
またこの主張は、当然、下部構造が上部構造を規定する、というあの有名な公式が正しい、という前提の上に立っているわけだ。
だが、マックス・ウェーバーなんて人が「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」という著作で、唯物史観を評価しながらも、その一元性にわりと根本的な疑問を提していたりもするわけだ。
それに体制が長続きしない、と言うが、必ずしもドラスティックな体制変革乃至は崩壊が起こるとは限らないだろう。階級対立や民主化要求が先鋭化し、ある臨界点を超えてしまったら、ロシアのような急激な体制変革も起こりうるかもしれないが、なにはともあれ中国共産党は、良し悪しはともかく、文化大革命も天安門事件も乗り切ってきた訳だ。
だから実は、中国共産党は、日本の自民党なんか到底足元にも及ばない、とってもしたたかな自己復元能力と高い危機管理能力を持った政党なのではないのだろうか。
そんなこともつらつらと思いながら、あの記事を見て思ったわけである。
八つの民主党派、ああ、こりゃガス抜き政党だな、と。所詮は中国共産党の一党支配体制の一パーツの域を出てはいないのではないかな、と。
私には、現在の中国の政治的実情は、よく解らない。
だが昨今、ネット上や政治評論の雑誌では、中国を批判する論調が目立つが、そんなジャーナリストや評論家達も、中国という国を一体何処まで理解しているのだろうと疑問に思うことがある。
地理的にも文化的にも中国とは極めて近い関係にありながら、多分、世界屈指の嫌中国家として(確固たる?)地位を築いている日本。
昨今、隆盛を極める中国批判の基となっている中国観は、おそらく明治以降の歴史的なスパンによって成り立っているのだろう。まぁ、確かに明治以降の日中の歴史のスパンだけで日中関係を捉えるならば、俺は中国が大嫌いだ!なんていう御仁数多存在するのも不思議はないが。
しかし時には、かって荘子や老子、そして易経を生んだ、中国の悠久の歴史にぼんやり思いを馳せるのも悪くはない、と思うのだが。
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近くの本屋で中央公論12月号を買ってきた。このテの雑誌はどちらかというとあまり買わない方なのだが目次を見て、へぇ、こんなものがね、と思った特集記事があったので、つい買ってしまった。
目に付いたのは「スピリチュアルって何」という、昔の芥川賞の受賞作の題名に引っ掛けたようなテーマの特集だ。
へぇ、こんなものがブームになっているのか。
スピリチュアルという言葉は勿論知っているが、こんな総合雑誌で、特集を組まれるほどのブームになっているとは全然しらなかった。
東京ではブームになっているのかもしれないが、地方の都市では、それ程目に付くような現象ではない。
自己啓発や瞑想関係のセミナーなどが開催されていない訳でもない。だが最近目立って多くなった、と言うほどでもない。パワーストーンを取り扱っている店を見かけないわけでもない。だが店内にお客がごった返しているという光景にも出くわしたことがない。占いの店は確かに多い。しかし、若い女性客が長い行列を作っている光景などついぞ見かけたことがない。
特集記事よると江原敬之助がブームの火付け役のようだが、もともと沖縄は先祖崇拝を重視する土着の宗教観が根強く、これを体現したユタという霊媒が今でも数多く存在するので、江原敬之助ごときが簡単にそのシェアを奪えるような地域ではないのだ。
だがこの特集をざっと読む限りスピリチュアル的なものの概念は、占い、超能力、ヨーガ、チャネリング、自己啓発セミナー、パワーストーン、数多のサイコセラピー、ユング心理学と、まぁほとんど何でもOK,か、と云いたくなる様な無節操さには少々辟易もする。
ユングの心理学や夢理論は、一部ののサイコセラピーにおいて、安易に利用されすぎている、とは以前から思っていたのだが。
今の日本、自己逃避する方法やアイテムには事欠かないようだ、といいたくなるが、それでは真面目にやっている人に対して失礼かも。でもそんな人達もそれが、表層的で一時的な癒しにはなっても根本的な解決ではない、とは感じているのではないのだろうか。それでもないよりはマシだ、と。たとえその場凌ぎの癒しでもなくちゃやってられない、と。そうではないだろうか。
一種の社会現象と云っていいのだろうが、現在、いかに多くの人が、漠然とした内面的な閉塞感を抱えているか、という推察も成り立たぬわけではない。
現代人の人間関係の希薄さもその一因となっているのだろう。
しかし、一方人々は、希薄な人間関係によって生ずる閉塞感や孤独感を抱えながらも、濃密な人間関係には耐えられない。で、回避する。
要するにショーペンハウアーのヤマアラシ状態なのだが、内面的な閉塞感の解決を現実の人間関係ではなく、霊や前世といったかつて人間だったものとの対話、或いは、狭い占い部屋やサイコセラピーや自己啓発セミナーといった現実から遊離した閉鎖的な空間に求めるのだろう。
だが、こうした行動の契機には一種の退行願望さえも感じるのだ。
数年前高野山に行った。観光客が多かったのだが、これはブームだけで片付けちゃいかんのだろうな。やはり非日常的なスピリチュアルな空気に触れてみたいという願望をいかに多くの人がもっているかということなのかもしれない。

そして、私にとって結構スピリチュアルだった本がこれ。
クリシュナムルティの「自我の終焉」「瞑想録」
インド人なのですが、東洋的な瞑想精神と欧米的な理知が融合したような不思議な魅力のある本です・・・。はい。
目に付いたのは「スピリチュアルって何」という、昔の芥川賞の受賞作の題名に引っ掛けたようなテーマの特集だ。
へぇ、こんなものがブームになっているのか。
スピリチュアルという言葉は勿論知っているが、こんな総合雑誌で、特集を組まれるほどのブームになっているとは全然しらなかった。
東京ではブームになっているのかもしれないが、地方の都市では、それ程目に付くような現象ではない。
自己啓発や瞑想関係のセミナーなどが開催されていない訳でもない。だが最近目立って多くなった、と言うほどでもない。パワーストーンを取り扱っている店を見かけないわけでもない。だが店内にお客がごった返しているという光景にも出くわしたことがない。占いの店は確かに多い。しかし、若い女性客が長い行列を作っている光景などついぞ見かけたことがない。
特集記事よると江原敬之助がブームの火付け役のようだが、もともと沖縄は先祖崇拝を重視する土着の宗教観が根強く、これを体現したユタという霊媒が今でも数多く存在するので、江原敬之助ごときが簡単にそのシェアを奪えるような地域ではないのだ。
だがこの特集をざっと読む限りスピリチュアル的なものの概念は、占い、超能力、ヨーガ、チャネリング、自己啓発セミナー、パワーストーン、数多のサイコセラピー、ユング心理学と、まぁほとんど何でもOK,か、と云いたくなる様な無節操さには少々辟易もする。
ユングの心理学や夢理論は、一部ののサイコセラピーにおいて、安易に利用されすぎている、とは以前から思っていたのだが。
今の日本、自己逃避する方法やアイテムには事欠かないようだ、といいたくなるが、それでは真面目にやっている人に対して失礼かも。でもそんな人達もそれが、表層的で一時的な癒しにはなっても根本的な解決ではない、とは感じているのではないのだろうか。それでもないよりはマシだ、と。たとえその場凌ぎの癒しでもなくちゃやってられない、と。そうではないだろうか。
一種の社会現象と云っていいのだろうが、現在、いかに多くの人が、漠然とした内面的な閉塞感を抱えているか、という推察も成り立たぬわけではない。
現代人の人間関係の希薄さもその一因となっているのだろう。
しかし、一方人々は、希薄な人間関係によって生ずる閉塞感や孤独感を抱えながらも、濃密な人間関係には耐えられない。で、回避する。
要するにショーペンハウアーのヤマアラシ状態なのだが、内面的な閉塞感の解決を現実の人間関係ではなく、霊や前世といったかつて人間だったものとの対話、或いは、狭い占い部屋やサイコセラピーや自己啓発セミナーといった現実から遊離した閉鎖的な空間に求めるのだろう。
だが、こうした行動の契機には一種の退行願望さえも感じるのだ。
数年前高野山に行った。観光客が多かったのだが、これはブームだけで片付けちゃいかんのだろうな。やはり非日常的なスピリチュアルな空気に触れてみたいという願望をいかに多くの人がもっているかということなのかもしれない。

そして、私にとって結構スピリチュアルだった本がこれ。
クリシュナムルティの「自我の終焉」「瞑想録」
![]() | 自我の終焉―絶対自由への道 J.クリシュナムーティ (2000) 篠崎書林 この商品の詳細を見る |
![]() | クリシュナムルティの瞑想録―自由への飛翔 ジッドゥ クリシュナムルテイ (1998/09) サンマーク出版 この商品の詳細を見る |
インド人なのですが、東洋的な瞑想精神と欧米的な理知が融合したような不思議な魅力のある本です・・・。はい。
最近、本屋でWEB進化論なる本を見かけて購入した。おそらくサイボウズ株を買う少し前だったと思う。その本で初めてWEB2.0という単語を見かけた。それほど意識していたわけではないが、おそらくこの本がサイボウズ株を買う後押しにもなったかもしれない。
WEB進化論
しかし、この本の著者、もちろんWEB2.0の専門家なのだろうが、本の論調だけをみていると、WEB2.0への過剰なまでの期待感があふれていて、専門家というより心酔者が書いたのか、と勘ぐりを入れたくなる程だ。いきおい表現もどこかお囃子的で落ち着きがない。しかし、WEB2.0の本質を理解するというのは、専門的な知識や技術の超えがたい障壁があって、われわれ一般人には、敷居が高すぎる。
その点この本は、初心者と同じ目線の高さまで降りてきている親切さも感じられる。まぁ、われわれ素人にはいい入門書なのでしょう。
そしてサイボウズ株を買った後に購入した本がこれ。
WEB2.0 BOOK
「そのまんまじゃねかよ〜」とツッコミを入れたくなるような題名ですが、著者の一人はサイボウズの小川浩。この本も初心者を全く念頭においていないわけではないだろうが、専門用語と注欄の用語解説の多さに少しばかり食傷する。
一応 オープンソース、ロングテール、ブログが主なキーワードなんでしょうか。そしてOSからWEBへという流れを、googleとマイクロソフトの対立という構図で捕らえている。
ビルゲイツ引退の新聞報道に載った米調査会社CEOのコメントもこの流れについて述べたものだろう。
ビルゲイツが引退を表明した日は、コンピューターの中に入っている有料ソフトの時代から広告収入をもとにネットで無料配布されるソフトの時代へ移行する日として記憶される、と。
googleのビジネスモデルがマイクロソフトのビジネスモデルにとって替わる日ということなんでしょうかね。
また書中、WEB2.0をパラダイムシフトとも形容している。しかし日本においては、WEB2.0的ビジネスモデルは、まだ模索の段階にあるようだ。
現在進行中のパラダイムシフトということになれば、WEB2.0については専門家の間でもおそらく完結した定義はない、と考えてもよさそうだ。
そしてサイボウズが日本におけるWEB2.0的ビジネスのリーディングカンパニーとなることを期待してます。
![]() | ウェブ進化論 本当の大変化はこれから始まる 梅田 望夫 (2006/02/07) 筑摩書房 この商品の詳細を見る |
WEB進化論
しかし、この本の著者、もちろんWEB2.0の専門家なのだろうが、本の論調だけをみていると、WEB2.0への過剰なまでの期待感があふれていて、専門家というより心酔者が書いたのか、と勘ぐりを入れたくなる程だ。いきおい表現もどこかお囃子的で落ち着きがない。しかし、WEB2.0の本質を理解するというのは、専門的な知識や技術の超えがたい障壁があって、われわれ一般人には、敷居が高すぎる。
その点この本は、初心者と同じ目線の高さまで降りてきている親切さも感じられる。まぁ、われわれ素人にはいい入門書なのでしょう。
そしてサイボウズ株を買った後に購入した本がこれ。
![]() | Web2.0 BOOK 小川 浩(サイボウズ株式会社)、後藤 康成(株式会社ネットエイジ) 他 (2006/03/01) インプレス この商品の詳細を見る |
WEB2.0 BOOK
「そのまんまじゃねかよ〜」とツッコミを入れたくなるような題名ですが、著者の一人はサイボウズの小川浩。この本も初心者を全く念頭においていないわけではないだろうが、専門用語と注欄の用語解説の多さに少しばかり食傷する。
一応 オープンソース、ロングテール、ブログが主なキーワードなんでしょうか。そしてOSからWEBへという流れを、googleとマイクロソフトの対立という構図で捕らえている。
ビルゲイツ引退の新聞報道に載った米調査会社CEOのコメントもこの流れについて述べたものだろう。
ビルゲイツが引退を表明した日は、コンピューターの中に入っている有料ソフトの時代から広告収入をもとにネットで無料配布されるソフトの時代へ移行する日として記憶される、と。
googleのビジネスモデルがマイクロソフトのビジネスモデルにとって替わる日ということなんでしょうかね。
また書中、WEB2.0をパラダイムシフトとも形容している。しかし日本においては、WEB2.0的ビジネスモデルは、まだ模索の段階にあるようだ。
現在進行中のパラダイムシフトということになれば、WEB2.0については専門家の間でもおそらく完結した定義はない、と考えてもよさそうだ。
そしてサイボウズが日本におけるWEB2.0的ビジネスのリーディングカンパニーとなることを期待してます。
カフカといえば「変身」が定番だ。しかし、仮面ライダーだってバッタの怪物に変身する。昨今、変身物は巷にあふれかえっているのである。
しかし、当然カフカには、外にもまだ奇抜な物語はある。
「ある流刑地の話」これも奇抜だ。何と云ってもそのナンセンスさたまらない。私が読んだカフカの小説ではこれが一番気に入っている(もっともカフカをそれほど読んでいるわけではないが)。
砂漠に設置された死刑執行台で上官の命令に服従しなかった兵士の処刑が行われるのだが、とある事情で一人の旅行者がその処刑に立ち会うことになる。
罪状の内容もナンセンスなのだが、処刑の方法もまたブラックユーモア的なナンセンスでさがあって実にいい。
結局兵士の処刑は実行されず、処刑人を務める将校が、自ら処刑台に上り刑を執行する。処刑の存続を嘆願する画策を旅行者に拒否され、自殺、と云うより殉職したというべきなのだろう。
処刑の職務内容のナンセンスさと、将校の職務にたいする強い使命感のギャップに結構奇抜感があるのだ。
ある流刑地の話 / 本野 亨一、フランツ・カフカ 他
カフカと言えば、不条理という言葉を駆使して人間の存在論的な不安について、言及していくのが一般的なのかもしれない。
しかし私が読んだ数少ないカフカの小説では主人公にとって職業というものが重要な位置を占めているような気がするのだ。
「城」の主人公、測量技師は城の依頼人と会うために際限のない探索を続ける。「変身」の主人公、セールスマンのザムザも変身の朝、出勤できない状況で、仕事のことで考え込むくだりがあったように記憶している。
断食芸人にしても、やはり自分の職務にたいする常軌を逸した愛着とプライドが彼を死に至らしめる。この点については、「ある流刑地の話」の将校も断食芸人となんら変わりはないのだ。
彼らはいかなる時も職業人としての自分の立場を忘れない。
自分が直面した極めて理不尽な状況によって、侵食されていく日常性や現実と、自分の職業を通じて、必死に関わりを保ち続けようとする。彼らにとっては、まるで唯一職業だけが、自分が現実社会に存在している証のように見える。そしてその証を失ったとき彼らは、現実とのつながりも失い、不可解な不条理の連鎖に飲み込まれていく。
このあたりに当時カフカが生きた時代の精神的な傾向と家庭環境の反映をみるのは強引だろうか。
二十世紀初頭、マックス・ウェーバーは、「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」という著作によってプロテスタント(とくにカルヴァン派)の禁欲的で厳格な職業倫理について考察している。それそしてそれが資本主義の発達に大きな役割をはたした、とまぁぞんな内容だったろう(なにしろこの本読んだの学生時代だし)。
また、父は一代で財を成した裕福なユダヤ人の商人だった。なら父もまた厳格な職業倫理の持ち主だったとしても決して不思議ではない。
そう考えるとカフカの小説は、厳格な職業倫理と職能社会の一面性によって閉塞していく個人の内面的な破綻の寓喩的な表現のようにも思えてくるのだ。
また、カフカの小説を読むと、私には、いつもある種の未解決感が残る。そう、おそらくカフカの小説は本質的に未解決的なのだ。
決してカフカ的なものではないのだが、実は私には、昔からある内的な未解決感があった。何を解決できないでいるのか、あるいは私自身が解決されていないのか、それはよく解らない。現在は、若い頃ほど先鋭的なものではなくなってきたが、いまなお残存している感覚だ。
そしてひょっとしたら、その未解決感覚を紛らわすためにこんなブログを書いているのかもしれない。
ところで「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」は、マルクス主義の唯物史観の一元性の批判的検証にも力点をおいていて、その点でも評価されていた著作だったと記憶しているのだが。
しかし現在数少ない共産主義国家の北朝鮮があのていたらくですので。
まぁ、もっとも今の北朝鮮を共産主義国家と思っている人は、ほとんどいないかもしれません。
しかし、当然カフカには、外にもまだ奇抜な物語はある。
「ある流刑地の話」これも奇抜だ。何と云ってもそのナンセンスさたまらない。私が読んだカフカの小説ではこれが一番気に入っている(もっともカフカをそれほど読んでいるわけではないが)。
砂漠に設置された死刑執行台で上官の命令に服従しなかった兵士の処刑が行われるのだが、とある事情で一人の旅行者がその処刑に立ち会うことになる。
罪状の内容もナンセンスなのだが、処刑の方法もまたブラックユーモア的なナンセンスでさがあって実にいい。
結局兵士の処刑は実行されず、処刑人を務める将校が、自ら処刑台に上り刑を執行する。処刑の存続を嘆願する画策を旅行者に拒否され、自殺、と云うより殉職したというべきなのだろう。
処刑の職務内容のナンセンスさと、将校の職務にたいする強い使命感のギャップに結構奇抜感があるのだ。
ある流刑地の話 / 本野 亨一、フランツ・カフカ 他
カフカと言えば、不条理という言葉を駆使して人間の存在論的な不安について、言及していくのが一般的なのかもしれない。
しかし私が読んだ数少ないカフカの小説では主人公にとって職業というものが重要な位置を占めているような気がするのだ。
「城」の主人公、測量技師は城の依頼人と会うために際限のない探索を続ける。「変身」の主人公、セールスマンのザムザも変身の朝、出勤できない状況で、仕事のことで考え込むくだりがあったように記憶している。
断食芸人にしても、やはり自分の職務にたいする常軌を逸した愛着とプライドが彼を死に至らしめる。この点については、「ある流刑地の話」の将校も断食芸人となんら変わりはないのだ。
彼らはいかなる時も職業人としての自分の立場を忘れない。
自分が直面した極めて理不尽な状況によって、侵食されていく日常性や現実と、自分の職業を通じて、必死に関わりを保ち続けようとする。彼らにとっては、まるで唯一職業だけが、自分が現実社会に存在している証のように見える。そしてその証を失ったとき彼らは、現実とのつながりも失い、不可解な不条理の連鎖に飲み込まれていく。
このあたりに当時カフカが生きた時代の精神的な傾向と家庭環境の反映をみるのは強引だろうか。
二十世紀初頭、マックス・ウェーバーは、「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」という著作によってプロテスタント(とくにカルヴァン派)の禁欲的で厳格な職業倫理について考察している。それそしてそれが資本主義の発達に大きな役割をはたした、とまぁぞんな内容だったろう(なにしろこの本読んだの学生時代だし)。
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また、父は一代で財を成した裕福なユダヤ人の商人だった。なら父もまた厳格な職業倫理の持ち主だったとしても決して不思議ではない。
そう考えるとカフカの小説は、厳格な職業倫理と職能社会の一面性によって閉塞していく個人の内面的な破綻の寓喩的な表現のようにも思えてくるのだ。
また、カフカの小説を読むと、私には、いつもある種の未解決感が残る。そう、おそらくカフカの小説は本質的に未解決的なのだ。
決してカフカ的なものではないのだが、実は私には、昔からある内的な未解決感があった。何を解決できないでいるのか、あるいは私自身が解決されていないのか、それはよく解らない。現在は、若い頃ほど先鋭的なものではなくなってきたが、いまなお残存している感覚だ。
そしてひょっとしたら、その未解決感覚を紛らわすためにこんなブログを書いているのかもしれない。
ところで「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」は、マルクス主義の唯物史観の一元性の批判的検証にも力点をおいていて、その点でも評価されていた著作だったと記憶しているのだが。
しかし現在数少ない共産主義国家の北朝鮮があのていたらくですので。
まぁ、もっとも今の北朝鮮を共産主義国家と思っている人は、ほとんどいないかもしれません。






