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乙武氏のブログがまだ完全に鎮火していない。
コメント読んでると、天皇家にたいする敬意と障害者に対する侮蔑の念は同一の人格に何の矛盾なく共存できるものだ、ということに気がついたのだが、それは、とくにめずらしいことでもなく、驚くことでもないのだろう。
これまで彼に向けられていたメディアや世間の好意や賞賛が、多分に偽善的なものでしかなかった、ということも改めて感じさせてくれるのだが、
コメントは、これまでメディアや世間の人々が彼に向けてきた、偽善的な好意や賞賛に対する鬱積した反感が一気に噴出した、という現象とも見ることが出来る。
彼の身体的な欠陥をあからさまに侮辱するコメントも、一方の対極にある偽善的な賞賛と好意に対する糾弾、という意味合いも持っている。
ただ単に心の歪んだ人達の書き込みと片付けられるものでもない。
もちろん、ブログの持つ匿名性と群集性にかこつけて人を侮蔑することの快感とそれを読む快感を生み出しているのも事実だ。だが、こうした快感さえも、決して特殊で異常な感情ではない。むしろ世間の人々一般に広く見受けられる感情であるといっていい。
この炎上は、障害者にたいする差別という問題も孕んでいるだろう。だが、ここで忘れてはいけないのは、人が人を差別するということは、主義や理念などではなく、ましてや社会慣習でもない。生きた人間の生活感情なのだ。社会制度、言語慣習の面では、障害者に対する差別はかなり克服されているように見えても、生きた生活感情としての差別感情は、全く克服されたわけではない。
人間がいかに様々な差別を好むか生き物か。実際のところ人間が社会的な存在であるということと、差別化を好む存在であるということは根源的には同じ本性に根ざすものなのだ。
差別化は、社会の本質的なダイナミズムを生み出すエネルギーとなっているとさえ言える。
とは云え、障害者や社会的弱者に対する差別は容認すべきではないのは当然のことなのだが。
コメント読んでると、天皇家にたいする敬意と障害者に対する侮蔑の念は同一の人格に何の矛盾なく共存できるものだ、ということに気がついたのだが、それは、とくにめずらしいことでもなく、驚くことでもないのだろう。
これまで彼に向けられていたメディアや世間の好意や賞賛が、多分に偽善的なものでしかなかった、ということも改めて感じさせてくれるのだが、
コメントは、これまでメディアや世間の人々が彼に向けてきた、偽善的な好意や賞賛に対する鬱積した反感が一気に噴出した、という現象とも見ることが出来る。
彼の身体的な欠陥をあからさまに侮辱するコメントも、一方の対極にある偽善的な賞賛と好意に対する糾弾、という意味合いも持っている。
ただ単に心の歪んだ人達の書き込みと片付けられるものでもない。
もちろん、ブログの持つ匿名性と群集性にかこつけて人を侮蔑することの快感とそれを読む快感を生み出しているのも事実だ。だが、こうした快感さえも、決して特殊で異常な感情ではない。むしろ世間の人々一般に広く見受けられる感情であるといっていい。
この炎上は、障害者にたいする差別という問題も孕んでいるだろう。だが、ここで忘れてはいけないのは、人が人を差別するということは、主義や理念などではなく、ましてや社会慣習でもない。生きた人間の生活感情なのだ。社会制度、言語慣習の面では、障害者に対する差別はかなり克服されているように見えても、生きた生活感情としての差別感情は、全く克服されたわけではない。
人間がいかに様々な差別を好むか生き物か。実際のところ人間が社会的な存在であるということと、差別化を好む存在であるということは根源的には同じ本性に根ざすものなのだ。
差別化は、社会の本質的なダイナミズムを生み出すエネルギーとなっているとさえ言える。
とは云え、障害者や社会的弱者に対する差別は容認すべきではないのは当然のことなのだが。
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