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以前、富田メモについて討論したテレビ朝日のサンデープロジェクトで、某著名女性評論家S井氏がこのメモを政治問題に利用してはいけない、という発言を繰り返していた。
政治的に利用してはいけない、とい発言自体に、このメモを分祀推進派に政治利用させ勢いづかせてはいけない、という政治的な意図が隠されているのはあまりにも明白だし、これまでの彼女の主張から類推しても、ムシのいい遠回しな自己弁護にしか聞こえない。
しかしこれがなかなか効果的なのである。どうやら、天皇を政治利用してはならない、というだけでなく、富田メモによってあきらかになった天皇の露骨な自我の発露自体に対する強い忌避の念が国民感情に深く浸透しているようだ。
また、合祀の正当性を主張する際にその論拠として、東京裁判の不当性を強く主張すればするほど、天皇の戦争責任と言う問題を引きずり出すという自己矛盾に陥ることになると考えたくなるのだが、ところがそうでもないのだ。
東京裁判の不当性を引き合いに出しその上で天皇の戦争責任には全く言及しないのはかなり無理があるのかと思ったら、「天皇は平和主義者だったと思う」とのメインキャスターの一言に誰も異論を唱えない。あれはあれで見ようによっては異様な光景のはずなのだが、そうは見えないところにこの問題が国民感情のみならず、マスコミにとってもタブーの領域に属する問題であるかをあらためて感じる。
もし仮に天皇が個人的に平和主義者だったとしても、天皇の戦争責任という問題とは直接的には関係ない。主義心情がどうであれ、結果的に多くの犠牲者を出したあの戦争の悲惨な結末の責任を一体誰がとるかということとは別の次元で論議されて然るべきなのだ。
また、そもそも天皇は本当に平和主義者だったのか。
その点についていろいろ考えさせられるのが「昭和天皇の終戦史」だ。
この本を読む限り、東京裁判が、戦争犯罪者を裁くと同時に、天皇の戦争責任問題を隠蔽する役割も果たしていた裁判であったことが伺える。
東京裁判がいかに国際法上不当で、しかも戦勝国が敗戦国を一方的に裁くという日本にとって屈辱的な報復裁判であったとしても、天皇の戦争責任には一切触れず、国体護持を可能にした裁判であったならば、それはそれで当時の日本の国益にかなった裁判ではなかっただろうか。
のみならず、天皇の宮中側近や政府高官が、天皇の戦争責任問題を回避し国体護持を果たすために、東京裁判を巧妙に利用していた可能性さえ推察できる内容だ。
東京裁判は、見ようによっては天皇制を占領政策に利用したいGHQと、天皇の戦争責任を回避したい天皇側近と、双方の意図に適った裁判であると考えられなくもない。
そしてこの東京裁判の孕む二律背反性と、天皇の戦争責任について触れることへの強い忌避の念こそが、靖国神社のA級戦犯合祀問題の議論を混迷に導く、奇妙な足かせとなっているようにも感じられるのだ。
また、この本では「昭和天皇独白録」についても詳細な分析を試みているのだが、そこには一般的に流布している、学者肌で非政治的立場を貫いた平和主義者という天皇のイメージとは程遠い、現実的で戦略的な政治判断に長けた天皇という人物像が浮かび上がってくる。
どうやら天皇の戦争責任の問題は、天皇自身だけでなく一般国民にも、さらに普段、在野精神をウリにしているジャーナリストにおいてさえ、タブーの領域にある問題のようだ。
私は決して、天皇に戦争責任があると主張しているわけではない。ただ、A級戦犯の合祀問題を論ずるたびに東京裁判が大きく取り上げられるのに、本来なら東京裁判とは切り離せないはずの天皇の戦争責任という問題にはほとんど言及されることがないことに、少なからず違和感を持っているだけである。
富田メモの真贋についてもいろいろ議論があるが私は、本物だという前提に立っている。
その真贋について私のような素人がいくら詮索をしたところで所詮は憶測でしかないから。
政治的に利用してはいけない、とい発言自体に、このメモを分祀推進派に政治利用させ勢いづかせてはいけない、という政治的な意図が隠されているのはあまりにも明白だし、これまでの彼女の主張から類推しても、ムシのいい遠回しな自己弁護にしか聞こえない。
しかしこれがなかなか効果的なのである。どうやら、天皇を政治利用してはならない、というだけでなく、富田メモによってあきらかになった天皇の露骨な自我の発露自体に対する強い忌避の念が国民感情に深く浸透しているようだ。
また、合祀の正当性を主張する際にその論拠として、東京裁判の不当性を強く主張すればするほど、天皇の戦争責任と言う問題を引きずり出すという自己矛盾に陥ることになると考えたくなるのだが、ところがそうでもないのだ。
東京裁判の不当性を引き合いに出しその上で天皇の戦争責任には全く言及しないのはかなり無理があるのかと思ったら、「天皇は平和主義者だったと思う」とのメインキャスターの一言に誰も異論を唱えない。あれはあれで見ようによっては異様な光景のはずなのだが、そうは見えないところにこの問題が国民感情のみならず、マスコミにとってもタブーの領域に属する問題であるかをあらためて感じる。
もし仮に天皇が個人的に平和主義者だったとしても、天皇の戦争責任という問題とは直接的には関係ない。主義心情がどうであれ、結果的に多くの犠牲者を出したあの戦争の悲惨な結末の責任を一体誰がとるかということとは別の次元で論議されて然るべきなのだ。
また、そもそも天皇は本当に平和主義者だったのか。
その点についていろいろ考えさせられるのが「昭和天皇の終戦史」だ。
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この本を読む限り、東京裁判が、戦争犯罪者を裁くと同時に、天皇の戦争責任問題を隠蔽する役割も果たしていた裁判であったことが伺える。
東京裁判がいかに国際法上不当で、しかも戦勝国が敗戦国を一方的に裁くという日本にとって屈辱的な報復裁判であったとしても、天皇の戦争責任には一切触れず、国体護持を可能にした裁判であったならば、それはそれで当時の日本の国益にかなった裁判ではなかっただろうか。
のみならず、天皇の宮中側近や政府高官が、天皇の戦争責任問題を回避し国体護持を果たすために、東京裁判を巧妙に利用していた可能性さえ推察できる内容だ。
東京裁判は、見ようによっては天皇制を占領政策に利用したいGHQと、天皇の戦争責任を回避したい天皇側近と、双方の意図に適った裁判であると考えられなくもない。
そしてこの東京裁判の孕む二律背反性と、天皇の戦争責任について触れることへの強い忌避の念こそが、靖国神社のA級戦犯合祀問題の議論を混迷に導く、奇妙な足かせとなっているようにも感じられるのだ。
また、この本では「昭和天皇独白録」についても詳細な分析を試みているのだが、そこには一般的に流布している、学者肌で非政治的立場を貫いた平和主義者という天皇のイメージとは程遠い、現実的で戦略的な政治判断に長けた天皇という人物像が浮かび上がってくる。
どうやら天皇の戦争責任の問題は、天皇自身だけでなく一般国民にも、さらに普段、在野精神をウリにしているジャーナリストにおいてさえ、タブーの領域にある問題のようだ。
私は決して、天皇に戦争責任があると主張しているわけではない。ただ、A級戦犯の合祀問題を論ずるたびに東京裁判が大きく取り上げられるのに、本来なら東京裁判とは切り離せないはずの天皇の戦争責任という問題にはほとんど言及されることがないことに、少なからず違和感を持っているだけである。
富田メモの真贋についてもいろいろ議論があるが私は、本物だという前提に立っている。
その真贋について私のような素人がいくら詮索をしたところで所詮は憶測でしかないから。
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