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  カフカといえば「変身」が定番だ。しかし、仮面ライダーだってバッタの怪物に変身する。昨今、変身物は巷にあふれかえっているのである。

 しかし、当然カフカには、外にもまだ奇抜な物語はある。
「ある流刑地の話」これも奇抜だ。何と云ってもそのナンセンスさたまらない。私が読んだカフカの小説ではこれが一番気に入っている(もっともカフカをそれほど読んでいるわけではないが)。
  砂漠に設置された死刑執行台で上官の命令に服従しなかった兵士の処刑が行われるのだが、とある事情で一人の旅行者がその処刑に立ち会うことになる。
 罪状の内容もナンセンスなのだが、処刑の方法もまたブラックユーモア的なナンセンスでさがあって実にいい。
 結局兵士の処刑は実行されず、処刑人を務める将校が、自ら処刑台に上り刑を執行する。処刑の存続を嘆願する画策を旅行者に拒否され、自殺、と云うより殉職したというべきなのだろう。
 処刑の職務内容のナンセンスさと、将校の職務にたいする強い使命感のギャップに結構奇抜感があるのだ。

ある流刑地の話 / 本野 亨一、フランツ・カフカ 他

 カフカと言えば、不条理という言葉を駆使して人間の存在論的な不安について、言及していくのが一般的なのかもしれない。
 しかし私が読んだ数少ないカフカの小説では主人公にとって職業というものが重要な位置を占めているような気がするのだ。

 「城」の主人公、測量技師は城の依頼人と会うために際限のない探索を続ける。「変身」の主人公、セールスマンのザムザも変身の朝、出勤できない状況で、仕事のことで考え込むくだりがあったように記憶している。
 断食芸人にしても、やはり自分の職務にたいする常軌を逸した愛着とプライドが彼を死に至らしめる。この点については、「ある流刑地の話」の将校も断食芸人となんら変わりはないのだ。

 彼らはいかなる時も職業人としての自分の立場を忘れない。
 自分が直面した極めて理不尽な状況によって、侵食されていく日常性や現実と、自分の職業を通じて、必死に関わりを保ち続けようとする。彼らにとっては、まるで唯一職業だけが、自分が現実社会に存在している証のように見える。そしてその証を失ったとき彼らは、現実とのつながりも失い、不可解な不条理の連鎖に飲み込まれていく。
 
 このあたりに当時カフカが生きた時代の精神的な傾向と家庭環境の反映をみるのは強引だろうか。
 二十世紀初頭、マックス・ウェーバーは、「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」という著作によってプロテスタント(とくにカルヴァン派)の禁欲的で厳格な職業倫理について考察している。それそしてそれが資本主義の発達に大きな役割をはたした、とまぁぞんな内容だったろう(なにしろこの本読んだの学生時代だし)。

プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神 プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神
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 また、父は一代で財を成した裕福なユダヤ人の商人だった。なら父もまた厳格な職業倫理の持ち主だったとしても決して不思議ではない。
  
 そう考えるとカフカの小説は、厳格な職業倫理と職能社会の一面性によって閉塞していく個人の内面的な破綻の寓喩的な表現のようにも思えてくるのだ。
 また、カフカの小説を読むと、私には、いつもある種の未解決感が残る。そう、おそらくカフカの小説は本質的に未解決的なのだ。
 
 決してカフカ的なものではないのだが、実は私には、昔からある内的な未解決感があった。何を解決できないでいるのか、あるいは私自身が解決されていないのか、それはよく解らない。現在は、若い頃ほど先鋭的なものではなくなってきたが、いまなお残存している感覚だ。

 そしてひょっとしたら、その未解決感覚を紛らわすためにこんなブログを書いているのかもしれない。


 ところで「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」は、マルクス主義の唯物史観の一元性の批判的検証にも力点をおいていて、その点でも評価されていた著作だったと記憶しているのだが。
 しかし現在数少ない共産主義国家の北朝鮮があのていたらくですので。
 まぁ、もっとも今の北朝鮮を共産主義国家と思っている人は、ほとんどいないかもしれません。



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