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 今日、NHKの新日曜美術館でムンク展を放映していた。
 実は私、先日、東京へ行った際に、このムンク展も観に行った。

http://www.tokyo-np.co.jp/event/bi/munch/works.html
 で帰りに葉書を買った。それがこの二点。

吸血鬼


声/夏の夜



 何故かこの二つの絵の葉書につい手が伸びた。むろん他の作品もなかなかよかったのだが。 何故この二つを買ったのか、その理由を無理やり後づけするならばだ。
両方とも女性がモチーフになっている、と思うのだが、男が女性に対して抱く欲望と憧れ、そして恐れ、その相異なり、かつ相矛盾する女性の二つの要素を表現しているようにも見える。

 つまり女の愛欲と純潔。
 もっと思いっきりベタな文学的表現を使うならば、娼婦性と処女性。それを女性の持つ本質的な二面性と捉えるか、あるいは、男というアバラの一本足りない生き物が女に対して抱く身勝手な妄想と憧憬と捉えるか、それは人それぞれなのだろうが。

 も一つ良かったのが歴史。でもちょっと画像探せませんでした!
一般に流布しているムンク作品のイメージとはちょっと傾向のことなる作品。長く枝を伸ばした大木の下で子供に語りかける老人。作品名と相俟って、変にストーリー性を感じさせる作品。
もっともムンクの絵は、もともとストーリー性とテーマ性が濃厚な作品が多いとは思うが。

 しかし、識者や評論家なら、ムンクの絵は、そんな通俗文学的な解釈に収まるようなモチーフじゃなくて、もっと生の奥深い本質に肉薄した芸術なんだぞ、と言うのかも知れない。

 この展示会の主題の核となるは<生命のフリーズ>だそうな。個々の作品を独立した作品として鑑賞するのではなく、全体を一つの作品として見る必要があるとムンク自身が考えていたからだそうだ。

 しかしだ、生命のフリーズ、というテーマで人間の生の本質に迫ろうとすればするほど、その背後に闇の如く存在する死という厳粛な現実と、その不安と怯えを引きずりだし、その破滅的なイメージの虜になってしまうという、というまことに不幸な資質の持ち主なんでしょうか、ムンクは。
 もし、ムンクの絵画が展示会の趣旨のように生命のフリーズ、というテーマで描かれているのとしても、私には、ムンクが表現したのは、結局、死という現実から滲みだしてくる不安と恐怖、そして狂気に脅かされ侵食され続ける存在としての生ではなかったか。

 まぁ、でも、結局絵画ってのは、頭で鑑賞するよりも、我々一般の鑑賞者はまず見て魅力的であればそれでいいのでしょう。

 その意味でこの展覧会、私なりにムンクの絵の独特さを味わえただけでも楽しかったかな。 奇抜な人物配置と色彩感覚。また死相漂う人物の顔面描写と不吉な情景。そして色濃い文学的なテーマ性。そして何よりも、その閉塞的な絶望感・・・。






テーマ:絵画
ジャンル:学問・文化・芸術
中国が初の政党白書なんてものを出して共産党による一党独裁の正当性を主張しているらしい。
 私が、この小さな記事から、わずかばかりではあるが、興味をもったのが、中国には八つの民主諸党派が存在している、とあえて強調されているという点。
 もちろんそれは、私がこの記事の部分から、あえて強調、というニュアンスを感じた、ということなのだが。

おそらく海外からは、中国共産党が、非民主的・人権抑圧的な体質であるというイメージで一般的には捉えられているのだろうから、その辺りも意識しているのだろう、と思った。

で、その八つの民主党派の概要がこのサイト・・・。

http://www.china.org.cn/japanese/81414.htm
 殆ど万人規模の組織ではあるが、13億の人口からすれば、雀の涙にもならない位の人数。
 結局、中国共産党がこんな政党の存在を認知しているのも、共産党一党支配のためには必要だからだろう。

 つまり、私は、ああ、こりゃ実態はガス抜き政党だな!!と思ったわけです。
 共産党以外の政治結社を全く認めない、と云うことになると不満が充満する。そんな不満がマグマの如く噴火したのがあの天安門事件ではなかったか。

天安門事件が、中国政府にとっては、政治的なトラウマとなっている可能性は否定できないだろうし、実際中国共産党は、天安門事件から、日本人が思っている以上に多くの事を学習したのではないのだろうか。

 たしかに、いずれの党派も成立年は天安門事件よりもかなり遡るが、いま現在もその存在を公式に認知している事情には、天安門事件の教訓も幾分は影を落としているのではないかと想像するのである。


 以前、ある有名な右翼系のブログが、中国について、

 下部構造が資本主義で上部構造が共産党独裁などといういびつな体制が長続きするはずはない

と書いてあるのを読んだことがある。実に明快で解りやすい主張ではあるが、現実はそんな単純なものじゃないだろう、という疑問も湧く。

 そもそも現在の中国共産党が、本当に厳密な意味で共産主義といえるのかどうか。
 ひょっとしたら現在の中国共産党指導部は、多少は共産主義的なドグマの下に組織されたエリート官僚機構だ、位に考えた方が、むしろ現実に近いのではないだろうか。そして、その官僚機構によって統治される強権国家、それが中国ではないだろうか。
 もともと中国には古くから科挙制度というものが存在していたわけだから、例え共産主義的であったとしても、官僚機構を受け入れやすい政治的な土壌はあった筈なのだろうから。

 またこの主張は、当然、下部構造が上部構造を規定する、というあの有名な公式が正しい、という前提の上に立っているわけだ。
 だが、マックス・ウェーバーなんて人が「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」という著作で、唯物史観を評価しながらも、その一元性にわりと根本的な疑問を提していたりもするわけだ。

 それに体制が長続きしない、と言うが、必ずしもドラスティックな体制変革乃至は崩壊が起こるとは限らないだろう。階級対立や民主化要求が先鋭化し、ある臨界点を超えてしまったら、ロシアのような急激な体制変革も起こりうるかもしれないが、なにはともあれ中国共産党は、良し悪しはともかく、文化大革命も天安門事件も乗り切ってきた訳だ。
だから実は、中国共産党は、日本の自民党なんか到底足元にも及ばない、とってもしたたかな自己復元能力と高い危機管理能力を持った政党なのではないのだろうか。

 そんなこともつらつらと思いながら、あの記事を見て思ったわけである。
 八つの民主党派、ああ、こりゃガス抜き政党だな、と。所詮は中国共産党の一党支配体制の一パーツの域を出てはいないのではないかな、と。

 私には、現在の中国の政治的実情は、よく解らない。
 だが昨今、ネット上や政治評論の雑誌では、中国を批判する論調が目立つが、そんなジャーナリストや評論家達も、中国という国を一体何処まで理解しているのだろうと疑問に思うことがある。

 地理的にも文化的にも中国とは極めて近い関係にありながら、多分、世界屈指の嫌中国家として(確固たる?)地位を築いている日本。

 昨今、隆盛を極める中国批判の基となっている中国観は、おそらく明治以降の歴史的なスパンによって成り立っているのだろう。まぁ、確かに明治以降の日中の歴史のスパンだけで日中関係を捉えるならば、俺は中国が大嫌いだ!なんていう御仁数多存在するのも不思議はないが。

 しかし時には、かって荘子や老子、そして易経を生んだ、中国の悠久の歴史にぼんやり思いを馳せるのも悪くはない、と思うのだが。





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大連立の頓挫から、民主党がなにやら訳の解らない迷走を始めてます。

 私から見れば、当初から民主党にとっては大したメリットもなさそうな大連立に小沢党首がなぜ踏み込んだのか、そこは大きな疑問ではあったのだが。

 でも発表があった時、福田、小沢双方の真の狙いは一体何なのだろう、と一応は考えてみたくなった。
 福田総理の方は普通に考えて、民主党を政権内に取り込むことによって、早期解散を封じ込めるのが一番の目的なのかな、と思った。同時に政権内である程度一体化(クリンチ)することによって、参院選で自民党に吹いた逆風と民主党に吹いた追い風を相殺して静めることができる、と、まぁ、狙いはそんなことなのかな、と。

 しかし裏で渡辺と森が動いている、との報道があり、いや、もしそうなら、もう少し乱暴なことを企んでいたのかな、とつい想像したくもなった。

 で、今回の大連立で福田総理以上に不可解なのが小沢党首の真意。
 何故、これから解散総選挙に追い込もうというこの時期に。
 まさか福田総理に態よく丸め込まれた、というわけでもないだろう。
で、これまでの豪腕、壊し屋、というイメージから私が推測したのが、トロイの木馬なのかな、と。
 つまり大連立によって、あえて自民党の懐に飛び込み、後は自民党政権中枢の喉下に手を突っ込み、造反組を無理やり引っ張り出し、自民党を分裂に追い込み政界再編へ道筋をつける。これなら、辞任会見で、参院選で大勝しながらも民主党はまだ力量不足、と言った小沢が打って出た次の策、と考えてもそれほど無理がない。

 だが、その後の辞任撤回、またそのコメント。正直いって小沢党首のホンネや真意はやく解らない。アメリカの圧力という報道もある。しかし、今回は側近でさえその真意を測りかねている様子なので仕方ないか。

 しかし、大連立が実現したとして、小沢がそれで、めでたしめでたし、と思っていたとも考えにくい。当然その先には、政界再編、真の二大政党制の樹立、というイメージを描いていたのではないだろうか。

 私はもう一度、比較的大規模な政界再編が必要なのではないか、と考えているので、もし小沢がそこまで目論んで、大連立に踏み込もうとしたのであれば、基本的に反対ではない。

 
 今日朝のフジテレビの政治討論番組で各政党の支持率を表示していた。自民、民主双方とも20%台の支持率。それで二大政党制ってこたないだろ。
 私は、現在の自民、民主の二大政治勢力は、小選挙区制度によって無理やり仕立て上げられた、擬似政治形態だ、とさえ思っている。

 のこりの半数の国民は、自民民主の政策を基本的に支持してはいないにも関わらす、選挙や国家の政治政策において、限られた選択肢を強いられている、という状況ではないのかか。
 しかし、現実には国会で、二大政党による国会運営や審議が行われている、という実態こそまさしく国民の多様な意識や選択肢を封殺したねじれ国会になってしまってはいないか。

 まず自民民主、どちらが支持されているか、を考える前に、国民に限られた選択を迫る小選挙区制が国民からどれだけ支持されているのか考えてみる必要はないのだろうか。

 実際、今度の党首会談においても中選挙区制への移行が論議されたようだ。 小選挙区制は、一見大政党を利するように見えて、結局は、自民、民主、どちらにとっても、どうやらあまり使い勝手のよくない選挙区制度のようだ。


 しかしだ、小沢さんって現在の自民党の代議士以上に自民党的な体質をもった政治家なのかもしれない。かっての自民党保守本流のDNAを最も強く受け継いでいる政治家、それは現在の自民党の代議士ではなく、小沢なのかも知れない。

 小沢は田中政治の後、日本の政局を左右する大きな変動期において、ほとんど必ず、と言っていいほど、キーマンを演じてきた政治家だ。
あるいは、政局の動向や変節に対する戦略的な嗅覚が非常に発達した政治家ではあるのかも知れない・・・。
 だから、小沢をもはや過去の政治家と決め付けるのは、まだ少し早いのかもしれない。



近頃はサブプライム問題で株式のほうに結構、注意を奪われていた。
 
国会で福田政権が何をやってるか、などということなど全く関心がなく、いま国会の審議がどうなってるかなんてことも、私には全く解らなかった。
 
でも、もともとこの福田総理、普段から何をしているのか、何を考えているのかさっぱり解らない、といった風情を漂わせているから、別に解らないのは私だけのせいじゃない、なんて勝手な考えていたのだが。

 ところが、国会の審議、実際本当に停滞して何をやってるのか解らない状態になっていたのかな。
 当の福田総理本人も「これじゃ何をやっているのかさっぱり解らん!」と考えたのかどうかは知らないが、大連立という、随分派手で大掛かりな捕り物を民主党に仕掛けてしまった。

 一体何のための大連立か。中長期的な展望に立って、果たして大連立をしなければならぬほどの政治的政策的な必然性が自民、民主双方にあるのか?ないでしょ・・・。
 こんな急場凌ぎの大連立など結局は砂上の楼閣で、もし出来ても、解散総選挙などとても乗り切れない。早晩崩壊するに違いない・・・と思ってる!

 結局は、ねじれ国家による国会運営の停滞と行き詰まりを乗り切るためだけの大連立になってしまうのなら、出来てもいずれ、立ち行かなくなるのは時間の問題、政局をますます混迷に導くだけにならないとも限らない。

 だが、私はもともと政界再編待望論者なので、この大連立構想のブチ上げが政界再編のきっかけにでもなれば、それはそれでいいと思っている。
 どうぞ、おやんなさいよ、大連立。
 出来てもすぐに自民、民主双方で内輪もめと分裂が始まり、公明党の謀反も勃発して一気に成果再編へと突き進む、というのもこれはこれで悪くないシナリオだ。
 でも結局大連立は見事に頓挫したようで。しかし、頓挫しても構想をぶち上げたことによる余波や余震というものは残るはず。それが政界再編への伏線になるなら、それも無駄ではない、と私なんかは考えているのだが。

 まぁ、いいでしょ。でも実は正直言うと、今あまりドラスティックな政局変動は、あって欲しくない、という気持もある。株価の方が心配なんだ・・・。

 それから、今回の党首会談は密室会談だと随分批判されてますが、いいんです!あれはあれで。もともと政治には裏があるんです。

 小泉政権時代の劇場型の政治手法に慣れきってるから密室での会談は非難の的になりやすいのかも知れないが、こんな大きな事を決めるには、当初は内々に事を運ぶ、というのも必要なことだし、同時に表に出すタイミング、というものも非常に重要なものなんです。私の感覚では、表に出るのがむしろ早かった位。

 安倍政権下では劇場型、というよりも、さらに政治のワイドショー化が進んで、政治というものが何か猥雑で薄っぺらな見世物になってしまったような印象を私には払拭することが出来ない。

 全てを白日の下に曝け出すのが本当にいいことなのかどうか。
 知る権利というものは、往々にして秘密を暴きたい、という無節操な覗き見的好奇心と紙一重なのだ。




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