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 東京地裁が、都教育長通達による国旗掲揚国家斉唱の強制は違憲との判決を下した。この報道について、私は至極当然、穏健にして常識的な判断だと思ったのだが。
 憲法の条文を普通に解釈すれば、東京地裁の違憲判断は十分な合理性を持っているし、判決要旨を読んでも特に、異論や異議はなかった。私にとっては、極めてフツーの判決、であった。
 しかし、あちこちのブログ覗いてみるとどうも、反対も多いようだ。

 反対論の全てがそうではないのだが、安部新政権誕生の時節柄か、昨今の右派ナショナリズムブームの時流に乗ったような論調を展開するブログも目立つ。

[{(日教組+支持派)≦護憲派=自虐的歴史観・日の丸蔑視}知識人×朝日]=サヨク:::みたいなのを敵対視しているのだろうが、そんな図式的な思考回路で世相を斬る!みたいなブログが流行しているのかな。
 当然の如く、現実はそんなに単純なものではないのだが。

 判決自体はそんなに偏ったものだとは思わない。原告側は画期的だと騒いでいるようだが、私から見れば中立的で穏便な判断にしか見えない。
 判決は何も日教組の肩を持っているわけじゃない。日教組と雖も、また他の何人たりと雖も思想及び良心の自由は保障すべきだ、ということなのだ。
 また国旗掲揚、国歌斉唱が、必要ないといっているのではない。それを強制し従わない奴を処分までするのは、やりすぎだ、といっているのだ。

 でもそんな右派ナショナリズムブログを読むにつけ、端的に思うのは、

みなさん、一体何をそんなに怒ってるの!!

ということだ。
 そんなに日本は住みにくい国なのか?
 小林よしのりや、上坂冬子あたりの著作を読んでも、文章や画が、イヤに情動的で挑発的だ。でもまぁ、それはいいとして。だってそれも思想及び良心の自由なんだから。

 私が思うに今回の東京地裁の判決なんかよりも、安部次期総理が主張している教職員の資格免許の更新制度のほうがずっと問題が多い。
 もしも、この制度の創設が、こうした訴訟も存在するような社会情勢をも念頭において提案されているのなら、こっちの方が遥かに思想や良心の自由を侵害する危険性を秘めてはいないだろうか。    
 しかも都道府県レベルではなく、国家的なレベルで。




 昨日は、深酒して・・・。今日休暇とってしまいました。なにか気が晴れない。すこし塞ぎこんだ状態で日記かいてる。
 なぁ〜んにもせずに一日中ウチでゴロゴロしてるので・・・。
 午後から外に出てみようかと思ってるうちにもう4時を過ぎてるし。

 安部新総裁が誕生したそうで。まぁ最初から結果のわかってる選挙なので、特に思うことはないのだが、初の戦後生まれの総裁らしい。
 戦争を知らない世代になって、逆に戦前回帰的な国家観を持っているのではないか、と疑いたくなるような人が国の最高指導者になるわけだ。
 しかしテレビ討論を見てると、自らのタカ派的な体質を隠蔽するかのように、曖昧な言説を繰り返していたが、あれには失笑した。
 支持層の幅が広い分逆に、自分のカラーを明確に打ち出せないというジレンマに陥っているということか。

 しかし一方では、国の最高法規である憲法の前文を「詫び証文」と公言してはばからないような男が国の最高指導者になったわけだ。あまり自分のカラーを明確に出されると却ってコワイ。
もし安部に小泉総理のような狂信的なまでの独善性が加わると、本当に危険な男になるのではないかと思う。
 もっとももしそうなら総裁なんかには選出されなかったかもしれないが。

  



テーマ:独り言
ジャンル:日記
 サイボウズが中間業績予想を下方修正。また暴落が始まるのかとヒヤヒヤしていたが、株価は以外と平穏だ。まぁ、通期予想は据え置きだし、下方修正もその理由を明示しているし。しばらくは様子見という流れだったのだろうか。
 Web2.0の潮流に乗って、何処まで成長のシナリオを事業展開において実現できるか。
 巷ではミクシィばかりがもてはやされているが、サイボウズだってまだまだ大化けする可能性が十分あると信じて、とりあえず、私も中長期でホールドという姿勢には変わりない。

 しかし日経平均も再度1万6千を割り込んでしまった。こうなってくると調整局面も何もあったものじゃない。去年が良すぎたということか。今の方向感に乏しい低迷相場がむしろ普通の状態と考えた方がいいのだろう。今後はこんな相場全体の地合がはっきりしない相場でもきっちり、リターンを取れる方法も勉強しなければ。
私の場合は短期売買ではなく、中長期ホールドが投資スタンスなので、売り買いのタイミングというよりは銘柄選択とポートフォリオの組み替え、そして各銘柄の保有比率の調整等で何とかやれないものかと思っているのだが。
しかし、5年間株式投資やってるが、まだまだ勉強不足だな。




 乙武氏のブログがまだ完全に鎮火していない。
 コメント読んでると、天皇家にたいする敬意と障害者に対する侮蔑の念は同一の人格に何の矛盾なく共存できるものだ、ということに気がついたのだが、それは、とくにめずらしいことでもなく、驚くことでもないのだろう。

 これまで彼に向けられていたメディアや世間の好意や賞賛が、多分に偽善的なものでしかなかった、ということも改めて感じさせてくれるのだが、
コメントは、これまでメディアや世間の人々が彼に向けてきた、偽善的な好意や賞賛に対する鬱積した反感が一気に噴出した、という現象とも見ることが出来る。 
 彼の身体的な欠陥をあからさまに侮辱するコメントも、一方の対極にある偽善的な賞賛と好意に対する糾弾、という意味合いも持っている。
 ただ単に心の歪んだ人達の書き込みと片付けられるものでもない。
 
 もちろん、ブログの持つ匿名性と群集性にかこつけて人を侮蔑することの快感とそれを読む快感を生み出しているのも事実だ。だが、こうした快感さえも、決して特殊で異常な感情ではない。むしろ世間の人々一般に広く見受けられる感情であるといっていい。

 この炎上は、障害者にたいする差別という問題も孕んでいるだろう。だが、ここで忘れてはいけないのは、人が人を差別するということは、主義や理念などではなく、ましてや社会慣習でもない。生きた人間の生活感情なのだ。社会制度、言語慣習の面では、障害者に対する差別はかなり克服されているように見えても、生きた生活感情としての差別感情は、全く克服されたわけではない。

 人間がいかに様々な差別を好むか生き物か。実際のところ人間が社会的な存在であるということと、差別化を好む存在であるということは根源的には同じ本性に根ざすものなのだ。
 差別化は、社会の本質的なダイナミズムを生み出すエネルギーとなっているとさえ言える。

 とは云え、障害者や社会的弱者に対する差別は容認すべきではないのは当然のことなのだが。







 今朝、いくつか知らないブログ覗いてたら偶然にも、こんなサイトに行き着いてしまいました。あの有名な乙武洋匡のサイト
何と・・・炎上の真最中ではないか。実世間でもネット上でも、火事場には人が集まりやすいようだ。
 天皇家の慶事という、国民最大の関心事に対し、不用意に、しかもあんなユルいテンションで噛み付くとこんな憂き目にあうということか。しかし、普通の人のブログなら、こんなに激しく炎上することはなかったのだろう。
彼にとっては不幸なことに、彼の身体的な特性が、まるで燃焼促進剤の如く作用し炎上が爆発的なものになってしまっている。
 また、すぐにあっさり謝罪してしまったのもまずかった。どう控えめに見ても火に油を注ぐ結果になっている。
 
 しかし、こんなにボロクソに叩かれて、トラウマになったりしないのだろうか。

 母屋の炎上もなかなか読み応えがあるが、炎上にTBする以下の二つのブログのエントリーについて感想。

 最初はこれ。

  溶解する日本http://blog.satohs.jp/200609/article_62.html

 実は最初にこのブログで乙武のサイトの炎上を知った。
 随分辛らつな意見だが、目にとまったのは、最後の部分。間接的な言い回し、「君の問いと僕が掲げた仮説の問いの根底にある」で結論をボカして少し解りづらくしてあるのだが、これが案外ファイアーウォールになっているのかも。
 乙武クン、今後ブログを炎上させたくないのなら、このボカす文章表現上のテクニックも覚えましょうね。

 もう一つはこれ。
 切り込み隊長BLOG
 http://column.chbox.jp/home/kiri/archives/blog/main/2006/
09/09_034408.html

 
 読んでて思わず笑ってしまった。乙武クンには申し訳ないのだが。
 しかしこうなると、ダンマリを決め込んで自然鎮火を待つしかないのでしょうな。



 最近ネットや新聞雑誌ではやたら安部という文字が目に付く。もう既に首相にでもなったような騒ぎだ。そんなに安部は担ぎやすい神輿なのか。そんなに祭り上げていいのか。お祭りは一度過熱するとなかなか静まらないものだが・・・。祭りの終わりはいつ来る。次の参院選で終わりかな。それとも・・・。

 今日の新聞報道でも安部氏が、現行憲法の解釈で集団的自衛権の行使を検討する旨、発言したと。いい加減にしろ。節操がないにも程がある。
 解釈改憲という言葉がすっかり定着した。解釈と改憲、本来なら全く意味の違う言葉がいとも容易に合体したこの言葉に、世間の人々はなにも矛盾を感じないのだろうか。人工的な異物感を覚えないのだろうか。

 こんな奇形的な言葉でしか表現できない程に、無節操な拡大解釈を積み上げてきたにも関わらず、まだ飽き足らずに集団的自衛権まで、現行憲法で行使可能というのは、もはや論理のかけらも存在しない発想だ。
 もちろん憲法の改正は必要かもしれない。自衛隊は実質的には軍隊だし、日本は既に再軍備していると考えてもおかしくない。
ならばいっそ改憲して戦力の保持と自衛のための交戦を容認したほうが、限度というものを見失ったグロテスクな拡大解釈に走るよりも、遥かに上品でいい。
 だが集団的自衛権の行使を、憲法改正において実現しようとするなら、慎重に論議を重ねるべきだとは思う。容易に行使を認めるべきではない。

 おそらく、安部は、顔がはっきり見える、主張が明快でわかり易い政治家として、国民の人気が高いのだろう。
 だが、一度考えてみる必要はないだろうか。主張が明快なのか、それとも極論に走りやすいだけなのか・・・。

これも今日の新聞報道だが、中国や韓国における他国の国旗を焼く行動を偏狭なナショナリズムと批判している。健全なナショナリズムと偏狭なナショナリズムとの違いについて言及しているようだ。
 だが昨今、日本国内の言論において、高揚しているナショナリズムが、本当に健全なナショナリズムといえるのか。家族や同胞を愛し故郷を愛する気持と同心円の延長上にある健全な愛国心といえるのか。

 靖国参拝という宗教性を帯びた儀礼的行動によって、必要以上に尊大な精神性を演出するナショナリズムが本当に健全なナショナリズムと云えるのか。個人の心の問題だと言うなら、なおさら靖国参拝といった形式的行為にこだわる必要などない筈だ。

 あるいは過去の歴史認識の再評価に固執して、是非とも東京裁判や東京裁判史観を全否定しなければ、新しい国家観も何も始まらないと考える、退行的なナショナリズムが健全なナショナリズムと云えるのか。

 他国の偏狭なナショナリズムの台頭を非難する前に、自国における退行的なナショナリズムの台頭についてもっと熟慮する必要はないだろうか。
だが現実にはそうした退行的なナショナリストがもっとも持ち上げ易い神輿が安部氏なのではないだろうか。

 




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